『世界で一番ゴッホを描いた男』とオリジナリティ
今年の1月末に、ドキュメンタリー映画『世界で一番ゴッホを描いた男』を観ました。
その時、一番強く思ったのは、「こんなに必死に描いているのに、搾取されているのか…」という気持ちでした。気の毒だなぁという。
しかし、その後「バンクシー展」「つだなおこ 〜鉛筆幻想散歩〜」「上野リチ展」等に行き、オリジナルなのかそうでないのか、で天と地ほどの違いがあるのだとわかりました。
わかりやすいのはバンクシーですね。
例えば、有名なこの絵。
今にもどこかに投げつけようと、彼が右手に持っているのは、手榴弾(などの武器)ならぬ花束です。
私のような絵心がわからない一般人にも、バンクシーが言わんとすることが、皮肉も込めてズドーンと伝わるわけですよね。
このようなオリジナリティあふれる絵を見てしまうと、やはり趙小勇(チャオ・シャオヨン)さんのゴッホの複製画は、ズドーンとは来ないのです。「うまい!ゴッホの絵そっくり!!」ではあっても。必死にゴッホの絵を描いても、買い叩かれる……残念だけど当然とも言えるのかもしれません。
映画の中で趙小勇(チャオ・シャオヨン)さんは泣いていました。
今どうしているんだろう?とググってみたら、ありました!!
映画「世界で一番ゴッホを描いた男」と、それからのこと、これからのこと
わあぁぁ、よかった…。
いつか、趙さんのオリジナルの絵を見てみたいです。
そして、ゴッホ自身も模写をしていたんですね。
左が歌川広重の「大はしあたけの夕立」、右がゴッホが描いた模写。
ゴッホの絵は、模写と言っても、「ゴッホみ」wがあふれていますね。
ちょっと思ったんですが、日本語教師として授業・レッスンは、このゴッホの模写のように考えればいいんじゃないでしょうかね。
つまり、いわゆる”いい授業”なんつーものは、まったくお手本通りにはできないわけですよ。
お手本的なものがあれば、それを参考にしつつ、学習者と教師でその時なりのテイスト・色味をつけていくっていう感じ。
授業・レッスンはバンクシーのように、ズドーンとは来なくてもいいと思っています。
あくまでも学習者中心に、何をどう組み合わせていくかということですかね〜。
最後は、絵の話を、無理やり日本語教育に当てはめて考えてみました(笑)。
あ、ちなみに広重&ゴッホの話は、「新完全マスター N2 文法」のP181の、
練習問題に引用されていた、赤瀬川原平『目玉の学校』から知りました。
ではまた〜。